TRIAL LESSON レッスンを体験しませんか
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セヴィアン・グローヴァーとタップ

 

セヴィアン・グローヴァー

(Savion Glover)

 

って方、ご存知でしょうか。

彼はアメリカ出身の世界的なタップダンサーです。

 

 

タップダンスは18世紀からあるらしいので、けっこうな歴史ですね。

そもそもはヴォードヴィルショーという黒人のエンタテイメントショーで踊られていましたが、やがて大衆化しニコラス・ブラザーズなどのスターが生まれ、フレッド・アステアジーン・ケリーなど白人の銀幕スターたちも巧みなステップを披露するようになります。

 

映画「TAP」の主演を務めた名手グレゴリー・ハインズはセヴィアンの師匠にあたります。

「TAP」には当時15歳のセヴィアンのほか、サミー・デイヴィス・Jr ジミー・スライドハワード ”サンドマン”シムズなど大御所もたくさん出演していて見応えがあります。

 

 

セヴィアンは1973年生まれということで、まさに現代を代表するダンサー。

タップダンサーというとビシッとしたスーツや燕尾服のイメージがありますが、セヴィアンはダルダルのシャツ。

そしてドレッドヘアーを振り乱しながら踊ります。

この姿がまた、カッコイイんですわ!

 

 

古来より踊りと音楽はセットですが、タップダンスはそれ自体がパーカッションなわけですからその結びつきはすごく強い。

タップダンスだけでも音楽として成立してしまいます。

ヴォードヴィルやブロードウェイ、そして映画の世界で踊られてきたタップの歴史は、そのままアメリカのエンタテイメントとしての音楽の歴史でもあります。

やはりその中心にあったのは「ジャズ」でしょう。

 

タップダンスとジャズは相性がものすごく良い。

とは言っても1940年代に入るまでのジャズとは、いわゆるスウィング(ビッグバンドでやるような)ジャズですね。

ジャズはその後ビバップ革命が起き、アンサンブルより個々のアドリブ演奏を重視するようになっていきますが、そうなってからのタップダンスとの距離感はどうだったのでしょうか。

おそらくはモダンジャズ以降、進行形のジャズとタップダンスの距離は徐々に離れていったのではないかと思われます。

このあたり、詳しい方はぜひ教えてください。

 

 

ともあれ、そこでセヴィアンの登場です。

伝統を重んじながらも「現在のタップ」を創造するセヴィアンは、コンテンポラリーなジャズコンボ(小編成なジャズ)で踊ります。

それははもう絶品。

 

緊張感とイマジネーションのあるアドリブ(即興)の応酬、そしてアンサンブル。

目を閉じて聴いたとしても素晴らしい。

 

 

 

ついでに素晴らしいタップダンスの世界をちょっと覗いてみましょう。

 

ニコラス・ブラザーズとキャブ・キャロウェイ楽団による最高級のエンタテイメント映像が、なんと現代の技術でカラー化!

 

「タップの神様」ミスター・ビル ”ボージャングル” ロビンソン。こちらも現代の技術でカラー化!

 

フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースの名コンビ。

 

「雨に唄えば」の楽しげなタップシーン。

 

邦画では「座頭市」のこのシーンが印象的でした。

 

【レコーディング】ピッチ補正③

 

ピッチ補正とはどんなものなのか、その歴史やソフト/アプリケーションなどをご紹介してきました。

 

ピッチ補正がすごい技術であることには疑いの余地がありませんが、

はたしてピッチ補正を施すことは良きことなのでしょうか。それとも悪しきこと?

 

 

このことは「Auto-Tune」の登場以来、頻繁に議論されてきました。

とは言え、当然のことながら立場によってまったく考え方が異なりますので、言ってしまえば不毛な議論だということもしばしばあるでしょう。

当人が良しとするならばバンバン使えばいいし、悪しとするならば使わなければいい。

 

それだけです。

 

が、それでは話が終わってしまうので、肯定派・否定派そのぞれの意見をまとめてみましょう。

そうしてメリット・デメリットを踏まえたうえで使うか使わないか、またどう使うかを判断していただけたら、この記事の意味も多少はあるのでは。

 

 

 

まず肯定派の意見としては、おそらく「力量不足を隠せる」ということに尽きるでしょう。

今や録音物はみな、音程がバッチリ!

本来、音程とはなるべくなら正確であった方が良い場合がほとんどですから、この見地から言えばもうピッチ補正様様(さまさま)です。

 

 

そして「レコーディングに時間をかけないで済む」というのも肯定派の意見。

シンガー・ミュージシャンを拘束する時間やスタジオを借りる時間を、場合によっては大幅に削減できます。

これは費用の削減にもつながります。

歌や演奏に決定的な間違いがなければ、ほんの数テイク録して後はピッチ補正を含む編集でどうにか…というわけです。

 

 

ところで、レコーディングにおいて、完璧を求めて何テイクも重ねていくうちに、「ハマる」ということは珍しくありません。

テイクを重ねるにつれ疲れて集中力がなくなりミスが目立つように、また新鮮味も薄れていきます。

そこで聴き返してみると意外と1テイク目が良かった、なんてこともままあります。

レコーディングは、時間をかければかけるほど良いかというとけっしてそんなことはなく、むしろ集中して短時間で録った方が良い場合が多いのです。

 

 

あと、肯定派の意見の中でも意外と見落としがちなのが「アンサンブルの調和」です。

ホンキートンクなピアノやチューニングの安定しないギター、フレットレスのウッドベースといった楽器のアンサンブルならいざ知らず、昨今のポピュラーミュージックにはコンピューターで鳴らしたサウンドが多用されています。

そういった音は基本的には機械的にチューニングされた狂いのない音程で鳴っています。

アンサンブルの中でそういった音の割合が多くなってくると、有機的で音程が不確定な音は他と馴染まず浮いてしまうんですね。

上手に歌われていたとしてもピッチ補正を施した方がよりオケに馴染む、ということがあります。

 

 

 

否定派の意見としては、とにかく「嘘モンになってしまうことへの懸念・嫌悪」があります。

「詐欺だろ」ってわけですね。

 

まぁ実際、「音源を聴き込んだあとライブに行ったら、音程の甘さにがっかりした」なんてのはよく聞く話です。

ただ、これについては「誰得?」っていう気もします。

ライブで聴いてもらうことが前提であれば、音源で過度にピッチ補正することはアーティストもお客さんも得しないんじゃないかな。

 

 

他には、ピッチ補正に頼って「歌手や奏者が成長しない」という話も聞きます。

往々にして歌手や奏者が「どうせピッチ補正するのだから…」というマインドでレコーディングにのぞむことになってしまう。

ピッチ補正することが前提であれば、集中力を発揮し、シビアに音程をコントロールするということが必要なくなってしまいますからね…。

結果として、先ほどの「ライブでがっかりパターン」になってしまうこともあるでしょう。

 

 

 

それぞれの主だった意見はこんなところでしょうか。

 

みなさんはどうお考えになりますか?

 

先に申し上げたとおり、見地によってまったく考え方は異なりますよね。

 

 

私自身は肯定派の意見にも否定派の意見にも頷けるところはあります。

 

ピッチを補正するということは元のデータを歪めることになるので、ナチュラルでなくなってしまうことは確かですが、聴感上ナチュラルであれば、作品としての完成度を求めてピッチ補正を施すのもアリだと私は思っています。

ともあれ、ピッチ補正を前提とするよりも

「補正なしで人に聴かせられるものを」という意気込みで録音に望みたいものです。

 

 

しかしながら、ピッチ補正が無かった時代のレコードやCDを聴くと、その歌唱や演奏の素晴らしさに感服いたします。

素晴らしい歌唱の一方では、やや拙い歌唱もそのままに音源になっているのですが、それはそれで良かったのかもしれません。

今や猫も杓子もピッチ補正で、面白くないと言えば面白くないかもしれませんね。

 

 

また、音程にばかり意識が向かうことは必ずしも良いことではない気がします。

 

音程が正確でもそれだけでは魅力的な音楽に足りえませんし、音程がちょっとズレただけでその音楽すべてがダメになってしまうかと言えばそんなことはないのでは。

音程の正確さだけで音楽の良し悪しを判断するようになってはつまらない…と感じています。

 

 

あ、ピッチ補正を過剰にかけてエフェクティブに使うことについては、結構なことだと思います。

 

名曲選その2「(They Long To Be) Close To You」

 

私的名曲選、2曲目は

「(They Long To Be) Close To You」

です。

 

今回も超王道です!

 

 

カーペンターズの代表曲

として広く知られていますが、最初の録音は1963年に俳優のリチャード・チェンバレンによって行われました。

その後、ディオンヌ・ワーウィック、ダスティー・スプリングフィールドらがカバー。

カーペンターズによるリリースは1970年ですので、しばらく経っているんですね。

さらに1970年にはダイアナ・ロスやB・J・トーマスが、1971年にはフランク・シナトラがカバー。

以降は数え切れないほどのアーティストがカバーしている、名曲中の名曲です。

 

「遥かなる影」という邦題が付けられています。

 

 

 

作曲は私の敬愛するバート・バカラック

作詞はバカラックの盟友、ハル・デヴィッド

 

 

この曲のなんとも言えないフワフワした感じ、ステキじゃないですか?

これは、おそらくはキー(調)の曖昧さから来ていると思います。

カーペンターズ・バージョンで言えば、キーがCメジャーかGメジャーかどっちつかずになっているんですね。

けっきょくはGメジャーキーだということになるのですが、歌い出しからしばらくはメロディ的にもハーモニー(コード進行)的にもCメジャーでもおかしくない雰囲気なんです。

理論的にはサブドミナントというやつからスタートしているこの技法、今や別段めずらしくもないのですが、ここまで効果的なのはなかなか聴けません。

 

さすがはバカラック大先生!

 

 

Aメロのフワフワした感じから一転、サビではリズミカルに。

メロディは音域の高いところで同じ音高の音を続けて歌うことで、テンションが高まっていきます。

歌詞で言うと「〜in your eyes of blue」の「blue」でポーーンと緊張が弾けて、例のポロロン、ポロロン…。

そしてまたAメロにつながるという、この一連の流れもあらためて聴くと本当に素晴らしい。

 

 

さらには、この曲には後奏(アウトロ)があるんですよね。

これがまたステキで心憎い。

「Wah〜ahhhh〜 Close to you〜」と繰り返されるだけのシンプルなセクションですが、絶対に外せない。

私はここがあるからこの曲が好きだと言ってもいい。

 

この後奏、おそらくはカーペンターズ・バージョンからだと思うのですが、もしかするとバカラックではなく、アレンジ(編曲)をしたリチャードによるものかもしれません。

(バカラック・バージョンでもこれとは違う3小節でくり返されるステキな後奏がついています。)

 

 

歌詞は、「あなたのそばにいたい」ということをポエムのように表現した内容。

「あなた」の存在を神秘的に歌う「あなた賛歌」です。

 

個人的には、含みのないストレートな歌詞だと思っていますが、「Love you」ではなく「Close to you」と歌うところが好き。

 

 

たくさんのカバーがありますが、私はやっぱりカーペンターズ・バージョンが好きかな。

カレンの歌声は言わずもがな、歌詞、メロディ、ハーモニーを際立たせるリチャードのアレンジが素晴らしい。

ただただふんわりもしかねない曲ですが、カーペンターズ・バージョンはシャッフルリズムになっており、カレンのドラムとベースがしっかりリズムのボトムを作っていて「ノリ」が出ています。

ストリングスやコーラスも歌詞の世界観を想起させるように美しい。

 

 

う〜〜ん、名曲!

 

 

最初の録音は俳優のリチャード・チェンバレン。

 

ディオンヌ・ワーウィックはバート・バカラック&ハル・デヴィッドのコンビによる曲をよく歌いました。その中の一曲。

 

バカラック大先生自身のバージョン。いちおうご本人が歌っています。

 

カーペンターズ以降のカバーは完全にカーペンターズ・バージョンが下敷きですね。

 

シナトラの譜割はさすがっすな。

 

歌が上手くなりたい!

 

私は歌うことが大好きです。

家ではだいたい歌っています。カラオケもホントなら毎日でも行きたい。

しかしながら同時に、思うように上手には歌えないもどかしさも感じています。

率直に言って、私は歌が上手くなりたい!

 

そこで今回は、歌が上手い人とはどんな人なのか、ちょっと考えてみたいと思います。

 

 

ちょっと前に「歌モノとインスト」という記事を書きましたが、そこで述べたように「歌と楽器はやっぱり別物」という一側面はあるでしょう。

だから、上手く歌えないもどかしさ楽器が上手く演奏できないもどかしさは少し違うような気がしてしまう。

 

 

生まれてから特別なことは何もせず、初めて楽器を触ったときにいきなり上手に演奏できる、なんて人はいません。

当たり前ですが、どんなヴィルトゥオーソ(達人)にも何もできない初心者だった頃があるのです。

 

ところが歌に関しては、「最初から上手い人」がいるような気がしてしまう。

 

天才、いわゆる先天的に…ってやつです。

そんなことないですか?

少なくともずっと昔の私は、なんとなくそんなふうにも思っていた節があります。

 

 

ただこれ、「そんな気がしてしまう」だけで、実際はそんなわきゃないですよね。

 

あんまり現実的な例えではありませんが、

オギャーと生まれてからある程度成長するまでいっさい音楽を聴かずに音楽的な遊びもせずに育った子供が、ある日初めて音楽を聴き歌ってみたら、生まれつきの才能でめっちゃ上手かった…

いやいや、ありえない。

と私は思います。

 

世の中に天才的に歌が上手い人というのは、けっこうな数いらっしゃいますが、その方々は「そういうの」じゃないと思います。

 

 

ではなぜ歌が上手くなったのか。

 

歌が上手い人は、おそらく例外なく音楽が好きで、音楽をよく聴いてきた人でしょう。

 

ここで言うよく聴くの「よく」は、頻繁にという意味と、集中して観察眼(耳)を持ってという意味の2つがあります。

集中して観察眼(耳)を持って、上手な人の歌をよ〜く聴くんですね。

 

 

そして真似して歌う。

「学ぶは真似ぶ」ってやつですね。

これは歌だけでなく楽器にも言えることですが。

 

 

ここで大事なのは、元の歌唱と自分が真似た歌声を比較検証すること。

これまた「耳」です。

同じように歌えているか、どこがどうズレてしまったかを冷静になるべく高い精度で判断する耳。

もちろんこの耳もまた、生まれもってのものというより、養われたものでしょう。

 

 

つまり歌の上手さは先天的なものではなく、積み重ねの上に成り立っているのです。

 

これは転じて努力すれば誰しも上手くなれる可能性がある、ということでもあります。

 

よかった〜〜。

まずは意識を持つところから、ですね。

 

 

楽器の演奏と同じように歌も、音程、リズム、抑揚、細かなニュアンス、声色の使い分け、といった一つ一つの要素を正確にコントロールすることで「上手さ」が成り立っています。

 

また、詞の世界観を理解すること、その世界に入り込むこと、自分の思いを乗せることで、上記の具体的な要素とは別に歌に奥行きや説得力をもたらすこともあるでしょう。

このあたり非科学的というか、根拠があるわけではありませんが、もし逆に詞の意味も知らずに歌ったとしたらやっぱり聴く人への響き方は違ってくるだろうとは思うわけです。

 

 

ということで、私もあらためて意識してみようと思います。

おわり。

 

 

あっ、ヴォーカルのレッスン、ボイトレにご興味のある方は、ぜひ体験レッスンを〜〜。

注)講師は私ではありません。ご安心を。w

 

名曲選その1「ALONE AGAIN (Naturally)」

 

私的名曲選、基本的には順不同で、思いついた曲を順次取り上げていこうと思いますが、1曲目はさすがにちょっと考えました。

 

で、選んだのは

「ALONE AGAIN (Naturally)」

です!

 

予告どおりベタです。w

最強にベタと言っていい、名曲中の名曲だと私は思っています。

 

 

 

ALONE AGAINは、アイルランド出身のシンガーソングライター、ギルバート・オサリバン(Gilbert O’Sullivan)による1972年リリースの曲で、アメリカ、イギリス、日本…世界中で大ヒットしました。

 

曲名やアーティスト名を知らずとも、ほとんどの方が耳にしたことがある曲でしょう。

 

かく言う私もオサリバンについては、ベスト盤で聴きかじっているぐらいでして…不勉強ですみません。

まぎれもなく70年代に一世を風靡した偉大なアーティストではあるのですが。

ともあれ今回はギルバート・オサリバンではなく、あくまで名曲ALONE AGAINについてですので、ファンの方々はどうぞご容赦を。

 

 

さてこの名曲、おそらくはピアノで書かれたソフトロック路線の曲で、

とにもかくにもメロディが素晴らしい。

 

そのじつ、ハーモニー(コード進行)的には非常に凝った作りになっており、細かい転調の嵐、同主調からのコード召喚、クリシェ、オルタードテンションと、ハーモニー技法のオンパレード。

 

だのに!

 

聴くとメロディと相まって、引っかかりのない流れるようなハーモニーになって聴こえます。

 

まさにナチュラリー!

アメージング!

 

私の大好物である、「シンプルに聴こえて含み(深み)がある楽曲」の最たる例です。

 

 

オサリバンは専門教育を受けず独学でピアノや作曲を行ったそうで、それでいてこのハーモニーの洗練さとはこれいかに?

今でこそ情報も多く早熟なアーティストは珍しくないですが、60年代にこれを21歳で作ったとか?

すごいんですけど…。

 

さまざまな技法が作為的に聴こえずじつにナチュラリーなのも、いわゆる「お勉強」から作られたものではないからかもしれません。

はっきり言ってジェラシーです。

 

 

さらにこの曲は構成も面白く、Aメロ〜Bメロ、もしくはヒラ歌〜サビ(ヴァース〜コーラス)といった区分けがありません。

必然のように次から次へとメロディが紡がれ、ワンセクションが16小節の大きなひと塊になっています。

これをワンコーラス(1番)ととらえるのが妥当でしょうが、そうなると今度はワンコーラスとしては非常にコンパクト、ということになる。

まるで童謡のような作りです。

う〜〜ん、ステキだわ。

 

そして1番、2番と歌ったのち、いわゆる大サビと言われるようなセクションが一度だけ出てきます。

ここへの転調も素晴らしい。

しかしこの当時、曲の後半に大サビを持ってくるという作りはかなり珍しかったのでは?

このセクションがあると無いとでは、曲の完成度もまったく変わってきたでしょう。

 

 

歌詞は意外にも?自殺をほのめかしたり両親との死別を語ったりして、「けっきょくは一人ぼっち」だと呟くような、ちょっと寂しい内容。

個人的には、ありきたりなラブソングじゃないところも好きなポイントです。

 

 

ところで名曲というと、のちにさまざまなアーティストにカバーされるのは当然の流れ。

ある意味そうしたカバーが、名曲を名曲たらしめているとも言えます。

 

中には、たくさんのカバーによって曲が一人歩きしている、つまりオリジナルがどれだか分からなくなっているようなものもありますが、

ALONE AGAINはオサリバンのオリジナルしか思い出せないと言ってもいいくらいでは。

それくらいに、オサリバンの歌声にしても素朴なアレンジにしても「これでなきゃ感」があります。

 

これぞ名曲。

 

 

 

…って長っ!

この文量では息切れしそうなので、次からはもっと要約しなきゃ。